学校が「当たり前に行く場所」から「行かないといけない場所」になり
だんだん「行きたくても行けない場所」から「行かない場所」になる。
「行きたくても行けない場所」になってしまっている時には、
朝、おなかが痛くなったり、心は「行かないといけない」と思っていても体が拒否するようになっている。
この時になってようやく周りの大人に伝わるようになる。
この突然(親には突然でも、子どもには第一段階から第三段階に進んでいる)の「行きたくない」という言葉は、親を驚かせ、困らせ、怒らせる。
「体調が悪くて行きたくないのか」
「面倒くさいなと思って行きたくないのか」
「いやな授業があって行きたくないのか」
親は「行かない事」に焦点をあて、「行けない事」にはまだ理解が追い付かず、「子どもの気持ち」より、「親の気持ち」を優先してしまう時期でもある。
学校に行くと心をすり減らすので行きたくない
行きたいのに行けない
この「行きたくない」の言葉の奥にある心の声に気付くことが初めはこれまたなかなか難しい。
子どもは、学校を「行くところ」だと認識しているからこそ「行けない」事に対して心の中で葛藤している。
学校を「無理に行く必要がない場所」だと、子ども自身に、そして周りの大人に理解を得らるまで、大人が思っている以上に子どもは心はすり減らし、いろいろ考えて悩みつらい思いをしている。
行かないと大人たちに怒られる
学校がただただつらい場所になっている
行っても自分の居場所を見つけられない
行かないと親が悲しむ
「行きたくても行けない選択」をしている子ども達は、決してずる休みではないことへの周囲の理解がなかなか難しい。
特に、親に理解されないのが、一番つらい。
一番身近にいる親がこのことを理解することは、子どもにとって心強くこんなに安心なことは他にないと思う。
家という安心できる居場所があるだけでも、この先子ども達の未来の選択肢はかわってくる
ただし、「学校に行かない選択をする事は不利益を被ること」への認識と理解は親子ともにとてもとても大事なこと。
行かないことによる不利益とは:
勉強や学びの機会
集団での学び
選択肢の範囲
などの機会を奪われることになるという理解。
その不利益を0にする事は出来なくても、自分が出来る範囲で埋める努力をすることができるのであれば「学校に行かない選択」にも意味がある。
今の時代は、家にいてもネットを使ったり、本を読んだりして情報や勉強など、学ぼうと思ったら学べる環境で、高校も通信制など選択肢もある。
小学校や中学校に行かない選択をしたから、もう勉強は無理だとあきらめるのはまだ早い。まだまだ本人が学びたい気持ちがあるのであれば、思った瞬間のその時から、なんならこの瞬間の今からでも決して遅くはない。
学校に行かない選択をした子ども達の中には「勉強したいけど無理かな・・。」とあきらめている子も多いと思う。
勉強するのが苦手であっても、自分のスキルをあげるためこれからの選択肢を増やすためにもどんなことでも学ぶ事はとても大事だと思う。
高校に進学する選択をしても、高校には行かず働く選択をしても、自分の適性(自分の性格や自分に合っていること、好きな事、続けることができそうなこと)を見極め学んで行くことがこれから先の社会に出る前の一歩として大事だと思う。
学ぶことの楽しさ、出来ることが増える楽しさの積み重ねがきっと未来の自分への種まきになり、ちょっとずつ水をまいていろんな種がそれぞれ芽を出すのを待つのも悪くない。
できることを見つけて、できることを増やしていくことの大切さ。
一歩一歩の積み重ね。